沖縄の経済格差とその背景―子どもをめぐる状況に着目して―

はじめまして、萩原真美と申します。

<簡単な自己紹介>
聖徳大学大学院教職研究科准教授。専門は沖縄近現代教育史。沖縄戦直後の沖縄で使われていた教科書や先生の授業ノートなどをかき集め、教育によっていかに復興しようとしていたかを調査しています。主著:『占領下沖縄の学校教育』(六花出版、2021年)、『つながる沖縄近現代史』(ボーダーインク社、2021年)。

2021年10月に内閣府の沖縄総合事務局が発表した「沖縄県経済の概況[i]によると、一人当たりの県民所得は239.1万円(2018年度)。この数値は、全国の平均所得の75.1%となっています。つまり、沖縄県の平均所得は、全国平均の4分の3しかないことを意味しています。

この経済格差によって最も大きな影響を受けているのは、社会的弱者とされる人々です。なかでも子どもたちに大きなしわ寄せがいってしまっています。内閣府によると、沖縄県の子どもの貧困率は29.9%で、全国平均(13.5%)と比べても2倍以上もあるのです[ii]

それではなぜ沖縄県は、日本の平均と比べて大きな経済格差があり、特に子どもたちにしわ寄せがいってしまっているのでしょうか。背景について、歴史的な視点からみていきたいと思います。

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沖縄県の経済格差を見る前に―「沖縄県」の3つの時代―

 沖縄県の経済格差について述べる前に、現在の沖縄県の成り立ちについて簡単に確認しておきたいと思います。

沖縄県が誕生したのは、今から140年以上前の1879年です。明治政府が琉球王国(1429~1879年)を廃した琉球処分により、沖縄県が設置されました。

そして1945年の沖縄戦の開戦とほぼ同時にアメリカ軍による直接統治が開始し、1972年5月まで沖縄はアメリカの占領下におかれていました。1972年5月に日本本土復帰が実現し、再び沖縄県となり、現在に至ります。

 

現在の沖縄県の経済格差は、歴史が積み重なったうえで生じていると言えます。沖縄県が誕生してから現在に至るまでは、➀沖縄県が誕生し、沖縄戦が始まるまでの近代沖縄(1879~1945年)➁沖縄戦開戦から日本本土復帰までの米軍統治時代(1945~1972年)③日本復帰以後から現在に至るまでの時期(1972~現在)の3つに分けることができます。

そこで、この3つの時期に分けて、経済格差の背景を説明したいと思います。

 

沖縄県の経済格差の背景➀ 近代沖縄

「沖縄の物産」と言えば何を思い出しますか。泡盛、ラフテー、黒糖、紅型などさまざまなものが思い浮かぶことでしょう。その中でも、「黒糖」、つまり製糖業が近代沖縄の主産業でした。黒糖生産のために、その原料である甘蔗(サトウキビ)の生産を増やしていきましたが、そのせいで主食だったイモ不足に陥ったという記録もあるほどでした。

沖縄県の製糖業は、サトウキビを栽培・収穫する農民たちが製糖まで担っていました。その結果、黒糖の生産量が増えれば増えるほど、農民たちの負担は大きくなり、経営は零細状態でした。

 

その一方で、ほかの工業は発達せず、日用品や食料品などは県外に依存しなければなりませんでした。

このように、黒糖に依存した経済だったのですが、日本政府は日清戦争後に台湾を植民地にして以来、台湾での製糖業に力を入れ、その結果沖縄の製糖業は衰退してしまいました。

ですが、沖縄県では製糖業に代わる産業の育成ができなかったことに加え、1930年代には世界恐慌による農産物の価格が大暴落し、沖縄社会は経済的に大打撃を受けます。毒性があるソテツを食して飢えをしのぐほどの事態だったことから、「ソテツ地獄」と言われています。

 

そこで、そのしわ寄せが行ったのが、社会的に弱い立場にある子どもたちでした。多額の借金を抱えた農村の男の子たちは、糸満の漁村へ奉公する「糸満売り(イトマンウイ)」、女の子たちは、「辻」という遊郭に身売りされる「辻売り(ジュリウイ)」が横行し、社会問題になりました。

この子どもたちは10歳前後なので、本来であれば小学校に通う年齢です。しかし、家が貧しいために学校に行くことが許されず、生活のために幼いうちから働くことを余儀なくされ、生涯にわたって低賃金での労働を強いられたケースも少なくありませんでした。

沖縄県は「ソテツ地獄」から抜け出すために、さまざまな策を練りました。ですが、抜本的な改革がされないまま第二次世界大戦へ突入していきました。

 

沖縄県の経済格差の背景➁ 米軍統治時代

1945年の沖縄戦開戦とほぼ同時に、米軍による占領が開始し、沖縄は米軍の占領下となりました。沖縄戦の戦闘中および戦争直後は当然ながら産業はできず、1945年度は貨幣経済もストップし、配給制度でした。その配給もままならない状況だったのは、ここで言う間でもありません。

沖縄で戦後復興をするにあたって取り組まれた産業の一つが、焼き物産業です。「やちむん焼き」などが有名ですね。那覇市は沖縄戦で壊滅的な状態だったにも関わらず、壺屋地区だけは奇跡的に被害を免れたと言われています。

そこで、労働者を集め、日常生活で使用する食器の製造などをしていきました。しかし、焼き物産業はその規模からしても、沖縄の主力産業とはなりませんでした。

 

戦後の沖縄では、焼き物産業に代表されるように少しずつ産業が復興していきましたが、その一方で住民たちの土地は軍用地へと化し、従来の沖縄の主産業である農業で生計を立てられなくなっていきました。土地が軍用地に化したことで、基地拡大から発生する土建業やセメントブロックなどの建設資材製造業、商業、サービス業などが主要産業となっていきました。

他方、戦後の日本では、繊維産業や重化学工業などの製造業が進展したことで、日本製の製品を輸出して外貨を稼ぐことができ、経営が安定した大企業が台頭しました。しかし、沖縄ではそれが実現しなかったのです。

つまり、製造業が進展しなかったことで、輸出による外貨獲得が難しくなり、安定した給料を支払える大企業が育たなかったのです。その結果、米軍や沖縄を訪れる観光客など外的な要因に左右される不安定な産業構造となってしまったのです。

 

特に、占領初期の沖縄では主幹産業が確立していなかったため、基地がある地域やその周辺には仕事があることから、住民たちは仕事を求めて転々と移動していました。職を求めて移動するということは、家族単位で移り住むことになるので、子どもたちも一緒に移動します。沖縄戦の直後から学校が再開していきましたが、学校の児童生徒数の変動も激しく、軍用地が多い地域には、多くの学校が再開または新設されていました。

島中の人々が生活するのに精一杯の状況だったので、子どもたちも、学校に行くことより家事労働を含む労働を優先せざるを得ない状況でした。

 

たとえば、親が仕事のため家事や育児ができないことから、下の兄弟の子守や家事手伝いをしなければならず、学校に通う余裕がありませんでした。ある程度大きくなったら、他の家の女中などをして、家族のためにお金を稼ぐケースもありました。

また、占領初期は14歳から就労可能だったことから、中学校3年生が全然学校に行かず、基地等で就労ということがまかり通っていました。一例を挙げると、1950年、嘉手納基地にほど近いコザ中学校では、中学校3年生約1,500人のうち3分の2である1,000人くらいの生徒が常休児で、中学生くらいの少年たちが大人たちに交じって作業に出ていたと言われています[iii]

このように、戦後も家庭の事情等により、学校に通うことができず、労働を強いられていたケースが多かったです。そのような人々の中には、文字の読み書きや計算などが十分にできないために、生涯にわたって非正規かつ低賃金での就労を余儀なくされているのです。 

 

沖縄県の経済格差の背景③ 日本復帰後

1972年5月、沖縄は日本に復帰し、再び沖縄県となりました。日本復帰にあたり、日本のような工業化も検討されましたが、公害反対や工場建設阻止運動などが展開したことに加え、占領期の行政機関である琉球政府(1952-1972)の内部からも、工業化ではない経済成長のあり方が議論されました。

その結果、インフラの整備、とりわけ道路建設などの大規模な公共事業を中心に、沖縄の開発が行われることになったのです。復帰間もない1975年に開催された沖縄海洋博覧会(以下、海洋博)に伴い、沖縄県における建設業、観光業、流通業が急拡大していきました。

しかし、その海洋博は、想定よりも来場者が大幅に下回ったことで、ホテル業や建設業等の倒産が相次いだのです。この現象は「海洋博不況」と呼ばれています。

 

ところで、海洋博がきっかけで拡大した建設業、流通業、観光業が衰退してしまったわけではありません。海洋博は、青い海や南国、リゾートといった「沖縄イメージ」を広める大きなきっかけになり、1990年代以降の「沖縄ブーム」の到来と相まって、観光業のさらなる拡大へと結びついていきます。

道路の整備が行われた結果、沖縄県民の消費のあり方も変わっていきました。日本でも流通革命がおこり、郊外型の大型店やチェーン店が進出・普及していましたが、沖縄県でもロードサイド型のショッピングモール、コンビニエンスストアが一気に普及し、流通業や商業が発展していきました。

加えて、2000年以降は、米軍基地の返還に伴う跡地利用として、大型商業施設が建設されています。その代表的な例が、北谷のアメリカンビレッジ、北中城のイオンモール沖縄ライカム、おもろまちのサンエー那覇メインプレイスなどです。

 

また、1990年代から始まり、2000年代に入ってから加速した「沖縄ブーム」により、観光業がいっそう盛んになっていきました。沖縄県文化観光スポーツ部観光政策課が作成した下のグラフを見てみましょう。

日本復帰の1972年(昭和47年)以降、観光客数・観光収入ともに年々伸びていることが分かります。特に、2012年頃からの成長が目覚ましいです。

2018年度には、観光業の収入が過去最高の7,340億円を超えましたが、その2年後の2020年度には、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で2,485億円に大幅に下落しています[iv]。たった2年でピーク時の約3分の1になっており、深刻な事態に陥っていることが分かります。

 

沖縄県では、新型コロナウイルス感染症による影響で、特に観光業が大きな打撃を受けました。しかし観光業の落ち込みは、それと大いに関連する建設業、流通業にも大きな影響を及ぼし、結果的に沖縄県の産業全体に大きな影を落としました。

沖縄県によると、近年最も高い完全失業率は2020年10月の4.0%で、全国平均の3.1%より0.9%高いです。特に深刻なのが若年者(15~29歳)完全失業率で、全国平均が4.9%なのに対し沖縄県は6.5%と、1.6%高いです[v]

その要因として、中学校卒(高等学校中退者を含む)の割合が全国で最も高く、非正規雇用の職業に従事している割合が高いことが挙げられます。公務員も例外ではありません。また、若年層に限りませんが、産業全体において非正規雇用率が全国平均と比べても高いのです。

出典:01【年度】(R04.8.30配布用)令和3年度観光収入 (pref.okinawa.jp)

 

歴史的な視点から見た、沖縄の経済格差の要因

以上、沖縄県の経済格差の要因について、歴史的な視点から見てみました。沖縄県の経済格差の主な要因として、大きく3点に整理できるのではないかと思います。

 

第一に、どの時代を見ても、一つの産業やその周辺産業に依存しているということです。近代は製糖業、占領期は基地建設などの建設業、復帰後から現代にかけては観光業と、産業は時代によって変化していますが、どの時代見てもモノカルチャー経済であると言えます。

第二に、モノカルチャー経済であるがゆえに、外的要因に大きく左右されてしまう状況にあるということです。それゆえに、天候不順、世界情勢、米軍による制約、そして現在の新型コロナウイルス感染症に代表されるような疫病等の外的要因によって大きく左右されてしまいます。

特に、沖縄戦による甚大な被害からの復興もままならないまま占領が続き、沖縄の人々の自由意思により、物を生産して販売することができず、製造業が十分に育たなかったことも影響しています。

第三に、基本的人権の保障が十分になされてこなかったことです。一見すると、経済格差の問題とは関係性があまりないように思うかもしれませんが、居住の自由、生活保障、教育を受ける権利などが十分に保障されず、子どもにも関わらず、生き延びるために労働を強いられ、学ぶ機会を逸した人々が多くいるのです。

その結果、生涯単純労働かつ非正規雇用など、不安定で低賃金な雇用条件で働かなければならなかったり、病気等で失業を余儀なくされ、貧困状態から抜け出せず、世代を超えて貧困が連鎖している家庭も少なからずあるということです。

 

沖縄の経済格差の問題は、今回の新型コロナウイルス感染症下で今まで以上に明るみになったかもしれません。しかし、この問題は、少なくとも沖縄県が始まった140年以上前から根深くある問題なのです。当面、国や県など行政側の社会保障の充実は欠かせませんが、それと同時に、産業を見直し、沖縄県民の雇用状況を改善し、安定的な雇用機会を構築していくことも欠かせないと思います。

 

また、人々が安心して暮らしていくためには、生活保障に加え、基本的人権が十分に保障されなければなりません。なかでも教育の保障がなされないことで、生涯にわたって人権が保障されない状況に陥る可能性があります。

沖縄の人々が安全に安心して暮らせるよう補償しつつ、制度や社会基盤の整備をしていくことが重要と言えます。[萩原1] 

(萩原真美)

 

[i] 内閣府沖縄総合事務局「沖縄県経済の概況」

[ii] 内閣府「沖縄の子供の貧困対策に向けた取組」

[iii] うるま市具志川市史編さん委員会編『具志川市史』第六巻 教育編、うるま市教育委員会、2006年、181頁。

[iv] 沖縄県「2.県外客の旅行内容と観光収入の推計」

[v]沖縄県「令和2年10月の雇用状況」